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猫が​いなくなった日の​こと

去年の 8/30 に一緒に暮らしてきた猫を亡くした。一年経った今日、あらためて猫のことを振り返る。

2014 年に保護猫カフェで出会ったムギトラ柄の雌猫で、うちに来てからは「いなり」という名前で呼ばれた。 消化器型リンパ腫との闘病生活が半年ぐらい続いた後のことだった。 ごく私的な出来事であまり表にせず、表面上は何か大きな支障をきたすことはなかったとはいえ、ある意味で直接の家族を自分の腕の中で亡くす初めての経験になったため、ずっと重いものが心に残っていた。 火葬を済ませ、写真を飾り、儀礼的なものごとの意義を実感しつつも、当時自分が残していた通院や病状の様子の記録1 や、弱っていく過程とその姿の写真と向き合うにはそれなりに時間が必要だった。 特に写真は、そのときに近づくほどに枚数が減っていき、なるべく元気な瞬間だけを捉えるように意識していた様子がうかがえる。

振り返ろうとするとどうしても人間側の選択の正しさについて疑いが生じてきてしまう。それがここまで時間がかかった原因なのかもしれない。一方で消化器型リンパ腫のような猫にとって致命的となる病気の怖さと、現在の獣医学のサポートの心強さも同時に体験することになり、これからも猫たちと暮らしていくことを考えると、ただただ喪失を強いられるだけの経験ではなかったと思う面もある。

なんとか早期発見ができて抗癌剤治療プロトコルの平均余命の分は一緒に居られたことや、最後の日のそのときを看取ることができたということで、人間側の責任は果たせたのかもしれない。融通が利く仕事の仕方やそれを実現するテクノロジーや周囲の人々に支えられた気がする。逆にもし、そうした社会的で自分ではどうしようもない制約のせいで日々の治療や最期の看取りすら叶えられなかったと想像すると、巨大な不安と苛立ちの発生も同時に想像できてしまう。

しかし猫自身は幸せだったんだろうか。この点では選択が正しかったかどうかは自信がない。

自分にとってやはり強い愛着の対象であり、特にこれまでの人生で一番つらかった時期にやってきて、なんとか今までこれるように(猫にその意思はないとしても)寄与してくれた一員なので、治療により余計ストレスを与えてしまわないかが心配だった。初期の小腸の開腹手術、その後の抗癌剤治療(UW25)、毎週の通院や血液検査など、猫からしたら急にストレスの原因が増えたような生活は実際どうだったんだろう。そういう考えも少し生じたものの、生存率が低い消化器型リンパ腫だからといって一定の知見が蓄積されてある程度余命を伸ばすことは期待できるのだから、それを知りつつ安楽死のような手を最初から検討に入れるというのは自分にはあり得ないなと思い、積極的な治療をすることに決めた。

最後の1ヵ月は様態がひどくなってきて腸閉塞のリスクが高くなってきたころ、侵襲的な検査や再度の開腹手術をするかどうかは本当に迷った。副作用で UW25 もスケジュール通りにはできなくなってロイナーゼを主とするレスキュープロトコルに移行したこともあり、猫自身の負担の軽減もこれ以上は難しいかもしれない状況だった。自分としてはそれで閉塞箇所がなんとかなる可能性がわずかでもあるならと思っていたが、妻は反対だった。手術室で亡くなってしまったら最後の瞬間を看取れないというのがその理由だった。一生後悔するかもしれないから、と。

自分が看取ることになり確かにその重みは感じたので、今では最後に過度な期待をかけて手術をしなかったのは良かったのかもしれないと思う。看取ることができた分、呼吸が弱くなり苦しそうな声を発した後筋肉が一瞬硬直しその後弛緩される死の生々しさを記憶してしまったのだけど、これも含めて最期まで一緒に暮らすという責務なんだろうなと思った。

今マウスパッドの上で寝ているサビ猫も、妻の枕を奪って寝ている黒猫も、子猫のときにうちに来たのでまだ2歳の若い猫たちだ。ずっと健康でいてほしいが、確率的には人間がその死を看取る可能性のほうがずっと高い。自分自身の生来の色々なつらさはあれど、猫たちのためになんとかやっていかなくてはと人間の勝手だがそう思えるようになったのは、結果として猫たちにとっても良いことなのかもしれない。

手元に何千枚も写真は残っているけど、個人的なベストショットはここで公開している。

Footnotes

  1. 病気が見つかる前から個人的には記録をとってきた。獣医と相談するためにも、Catlog Board の記録は一定の役に立った。